カメハメハ大王のアイコン中■カメハメハ大王(1795-1819)

いわずと知れたハワイ王朝初代の王様です。
それまでバラバラだったハワイ諸島をまとめた人です。

 ハワイ王朝はカメハメハ大王を初代とし、8代98年にわたって続きました。
そのうち、カメハメハ大王の血筋は5代目で途絶えています。

後半の3代の王様はカメハメハの血縁ではなく、議会で選ばれた王様なんですね。
カメハメハ大王が即位した時代の日本は、徳川第11代将軍家斉の世です。)

6/11は大王の生まれた日、カメハメハ・デーで祝日なそうです。






いろいろ調べていくとカメハメハ大王はまさにカリスマ中のカリスマだったようです。
カメハメハの没後、ハワイは西欧諸国からさんざんに干渉を受けることになりますが、カメハメハ存命中は、諸外国も遠慮気味だったといいます。
「カ」が名字といいますから「カ・メハメハ」が本当なんでしょうね。 意味は「孤独な人」「静かな人」

■カメハメハ2世(1819-1824)

実際は父カメハメハ1世の寵愛を受けた摂政カアフマヌの時代 大王の長男。
カメハメハ大王には多くの妻がいましたが、彼はその中でも最も位の高い「聖婚」で結ばれた妃との子供です。

しかし、行政は父カメハメハ1世の寵愛を受けた「ハワイアンの母」と称される、カアフマヌと首相の手に握られ、実質的な権力はほとんど持たなかったといわれています。

この王はカメハメハ1世の死後すぐに、カプと呼ばれる多くのハワイの伝統的タブーを廃止しました。
キリスト教宣教師が初めてハワイに上陸したのもこの王の治世下でした。

イギリスとの同盟関係の交渉のためロンドンへ向かうが、ジョージ4世との謁見を果たす前に王妃とともに麻疹にかかり、免疫を持たなかった王は1824年7月14日に死去しました。

■カメハメハ3世(1825-1854)

賢王と言われています。
カメハメハ2世の弟で2世の死後10才で即位。 母は前出の摂政カアフマヌ。

カメハメハ3世は王国の改革に努め、1840年にハワイ語の憲法を制定し、1840年代半ばにはイギリス、フランス、アメリカから独立国として承認されました。
しかし、憲法制定後の政府では白人が要職を握り、ハワイ人が主体的に政治参加することが妨げられていました。

■カメハメハ4世(1854-1863)

病院を作りました。
カメハメハ3世の甥。(大王の孫。)  

当時のハワイ王国は、急増するアメリカ系移民から政治的・経済的に多くの圧力を受けるようになっていました。
カメハメハ4世はアメリカがハワイを征服するのではないかと恐れ、通商・貿易におけるアメリカへの依存を低めるよう努め、またイギリスを初めとするヨーロッパの国々との取引を模索しました。
しかし彼の在位期間は、十分な効果を上げられるほど続きませんでした。

またカメハメハ4世とエマ女王はハワイ臣民の健康のために尽力しました。
当時海外から持ち込まれたハンセン病やインフルエンザがハワイの先住民人口を激減させることが恐れられていたためです。

 1855年にカメハメハ4世は公立病院や高齢者向け施設の建設などを盛り込んだ野心的な法案を議会に提出するものの、1852年の憲法で多くの権限を手にしていた議会はこれを否決。
これを受けてカメハメハ4世とエンマ女王は独自で基金を募り、現在も先進的な病院として知られるクイーンズ病院を建設、またマウイ島にはハンセン病の医療施設を建設するなど、かなりの成果を上げました。

カメハメハ4世は1863年11月30日、気管支喘息のため29歳で逝去し、弟ロット・カプイワがカメハメハ5世として跡を継ぎました。

エマ女王はこの後も活発に政治活動を続け、1874年の国王選挙では立候補するが、カラカウアに敗れました。

■カメハメハ5世(1863-1872)

カメハメハ4世の弟。(大王の孫。)

4世と同じく在位9年にして他界してしまい、カメハメハ王朝は77年で途絶えました。
この王は独身で、かつ、王位継承者を指名できずに亡くなってしまったため、次の王位決定は議会にゆだねられることになります。
■ルナリロ王(1873-1874)

その議会で選ばれたのがこの王。 在位わずか1年あまりで結核により他界します。

■カラカウア王(1874-1891)  

ルナリロ王もまた、後継者を指名せずに他界したため、再び王位決定は議会にゆだねられます。
候補としてデイビッド・カラカウアと、カメハメハ4世の妃であったエマ王妃が熾烈な選挙戦を演じ、結果、カラカウアが辛勝しますが、エマ王妃派が暴動を起こして米英が鎮圧する、など初期混乱も見られました。

政治的には、親米的であり、1875年には米布互恵条約によってアメリカとの間の関税が撤廃され、さとうきびをはじめとするプランテーション産業がいっそう興隆します。 その結果アメリカ人勢力はいっそう強まり、晩年は政治的には完全に無力となってしまいます。

しかしなんといってもこの王を有名にしたのは1881年、9ヶ月余りに及ぶ世界周遊旅行に出かけたということでしょう。
独自の「太平洋連合構想」に基づいて、途中、日本にも立ち寄り、移民の要請と共に、姪のカイウラニ王女と山階宮親王の間の婚姻を提案したりしています。
 帰国後はハワイナショナリズムの復興に砕身し、ハワイ音楽やフラの復興、カフナの復権などを行い、自ら創世神話「クムリポ」を出版したり、と、活躍しますが、「税金の無駄遣い」という批判も多かったようです。

そして、最後の女王「リリウオカラニ」へと続きます。

ハワイ王朝年表


参考文献: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia) ハワイの神話と歴史