カイウラニのアイコン【カイウラニ王女】
カラカウア王(7代王)、リリウオカラニ女王(8代で最後の女王)の姪。

この兄妹が、見るからにポリネシア系の顔立ちで、体つきもガッシリズングリしているのに比べ、カイウラニ王女の美貌にはまず驚かされます。
残されている肖像画や写真を見ると、首も細いし、体もほっそりとしているようです。

カラカウア王が、日本の明治天皇にハワイの王族と日本の山階宮の縁談を相談したのは、カイウラニ王女の事でした。
その時わずか5才。
この縁談、実現していたらどうなっていたのでしょうね。

14才からはカラカウア王の指示により、イギリスに留学し、ヨーロッパ社交界の教養も身につけた彼女ですが、祖国は政変の嵐。 彼女の帰国は延期になります。 そして、1893年(明治26年)留学先でハワイ王朝崩壊の知らせを聞くのです。







ハワイ王朝崩壊後、暫定政府が樹立宣言を行い、翌日には、その承認を求 めて、政府側がワシントンに向かいます。
王室側も、樹立を不服 としてワシントンに特使を派遣しようとしますが、政府側が同船を拒否、王室側は 2週間遅れてホノルルを出航します。
この事件を聞いたカイウラニ王女は断即決、イギリスを発って アメリカに向かったのです。

このとき、ニューヨーク港では、事件を知った記者たちが、 「野蛮なハワイ人の娘」が嘆願にやってくるらしい、ということで待ち構えていました。
ところが、カイウラニの洗練された容姿と感動的なスピーチに、記者達は度肝を抜かれます。
ニューヨークのマスコミは一気にハワイ王朝の味方になったのです。
↑ ここ、傑作ですよね。 映画のワンシーンのようです。 「野蛮なハワイ人の娘」と思っていたら、あらわれたのはヨーロッパ社交界の教養まで身につけた美貌の若きプリンセスだったのですから。

ときの大統領はクリーブランド。 王室側からの特使コアは、結局、大統領との面会を許さ れず途方に暮れていましたが、自由意志で行動しているカイウラニには、大統領夫妻から 昼食会への招待状が届くのです。
カイウラニから事情を聞いた大統領はその日のうちに、 新政府側の主張を退け、事情を正式に徹底調査する旨約束してくれたのです。
カイウラニ18歳のときのできごとです。

1893年8月。 大統領による調査団は、「アメリカ公使スティーブンスが国際犯罪を犯したと 確信する。アメリカは国の名誉と威信をかけて誤りを正さなければいけない」と結論を下 します。
そして、解任されたスティーブンスに代わって着任したウイリスがリリウオカラ ニと面談。
公使は女王に「アメリカは、女王の復位を認めます。
女王におかれても、今回の首謀者にはできるだけ寛大な処置をお願いしたい」と申し出たのです。リリウオカラニのアイコン

しかし、リリウオカラニは、首謀者に対しては死刑及び財産没収を主張して譲らなかったのです。
暫定政府内にも支持者の多かったカイウラニを女王に即位させるという案についても、彼女は「カイウラニはまだ若すぎる」という理由でそれを一蹴。
カイウラニに対しても、「女王就任のオファーがあっても決して受けないように」指示。
王政復古は成立しなかったのです。

1897年、指導力を欠く共和国では、白人社会の世論でも「カイウラニが女王になって くれればハワイは再び希望が持てる」という意見が噴出、新聞の論調もカイウラニ女王を 期待するようになります。

1897年11月、カイウラニは8年ぶりにハワイに帰国しました。
ホノルル港は黒山の 出迎えです。演奏禁止となっていた「国歌」ハワイ・ポノイがカイウラニの前では何度も 演奏されました。
↑ここ、感動的です。 禁止されていたハワイ国歌が彼女の前では許可されたんです。

共和国政府も「ミス・カイウラニをプリンセス・カイウラニと呼んでかまわない」という正式コメントさえ出したのです。
 しかし1898年、米西戦争の影響で、太平洋防備を焦ったアメリカは、急遽ハワイ併合 を決意。  

そして翌1899年(明治32年)、カイウラニはわずか23歳5ヶ月の生涯を閉じたのです。(結核だったという説あり)
(この42年後、日本軍によるハワイオアフ島真珠湾への奇襲攻撃が行われました。)
ハワイ最後の希望の星が消え、ハワイの新政府には、ハワイ市民のみならず、全米から非難と抗議の手紙が殺到したということです。

 カイウラニは、生前、常に叔母のリリウオカラニに気を遣いつつ、彼女の顔をつぶさないよう努力してきました。
リリウオカラニには、姪のカイウラニに人気が集中するのが、あまり愉快ではなかったという背景もあったようです。

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・この記事のほとんどはハワイの神話と伝説様より許諾を受け、転載させて頂いております。

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